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 ふわりと鼻を擽る香りに、深く沈んでいた意識が浮上する。

 聖地の甘ったるい薔薇とは違う清涼な香り。纏わりつくような眠気を一気に飛ばすそれに、スヴェンは重い瞼を開いた。

「目が覚めたか」

 僅かに霞んだ視界に飛び込んできたのは濃紫の神官服だ。どこか疲れた顔をしたシーギスが、スヴェンの顔を覗きこんでいる。

「……寝起きに一番に見るのが野郎の顔ってのはなかなか頂けねぇな。せめて聖地に居た神官の嬢ちゃんとかさぁ……ま、ちょっと色気は足んねぇけど」

「…………冗談を言う元気はあるようで何よりだ」

 深く溜息をついたシーギスを横目で見ながら身を起こすと、押し付けられるように大振りなカップが手渡される。僅かに琥珀色がかった湯には数枚の葉が浮かんでおり、先程嗅いだすっきりとした香りが漂っていた。見慣れぬそれに怖々口をつければ、僅かな甘みと共にぴりりとした刺激が舌に走る。一言で言うなら、致命的に不味いという訳ではないが、好き好んで飲もうとは思わないような味だった。

「薬のようなものだ。口に合わないかもしれないが、冷める前に全部飲んでおけ」

「はぁ? 薬?」

「……お前たちが発見されてから既に半日経っている。その間、叩いても抓っても起きなかったんだ。どこか異常があるのかもしれない。……その様子だと杞憂で済みそうだが」

 眉間に皺を寄せ、シーギスは再度溜息をつく。そんなに溜息ばかりついてるとハゲるぞとからかってみたところ、恨めしそうな目で睨まれた。暗青色の目の下には、薄らとクマが残っている。この国の聖職者は治療師も兼ねていると言うが、彼の方がスヴェンより余程消耗していそうだった。

「起きたんなら代わろうか?」

 徐に、ノックの音も無く扉が開いた。顔を覗かせたのは、こちらは概ね普段通りの様相のエセルだ。小さく開いた扉の隙間に身体を滑らせるようにして入ってきた彼は、何の遠慮も無くスヴェンのベッドに腰を下ろす。離宮で与えられたものとは違う簡易なそれは、二人分の体重に僅かに軋んだ音を立てた。

「カーラの方はどうだ?」

「相変わらず。とりあえず言われたもんは渡して来たけど、流石に今日明日は動けないんじゃないかな。まぁ概ねいつもの症状と同じだよ」

「そうか……なら先にこちらを片付ける。忙しいところすまないが同席を頼みたい」

 僅かに声を落とし密談めいた空気を出す二人に、スヴェンは軽く肩を竦めた。彼らの立場を考えれば当然だが、ただ遊びに来ただけではないようだ。

「なぁ、お前らの用事の前にいくつか聞いていいか? とりあえずここどこだよ。あと、カーラの野郎は生きてんのか?」

「縁起でもない質問だな……ここは王宮の治療室の一つだ。今朝方、お前とカーラは聖地からここに搬送された。カーラは別室で治療中だが、怪我はないし命にも別状はないから心配はいらない。……他には何もないか?」

「あー……そうだな、無いこともねぇけど別に後でいいぜ。アンタら二人で雁首揃えてここにいるってことは、何か大事な話でもあるんだろ。そっち聞いてからまた考えるわ」

「お気遣いどうも。お前そういうタイプだったっけ?」

 大げさに目を瞬かせて見せるエセルに少しばかり面白くない気分になり、スヴェンはばりばりと頭を掻いた。スヴェンとて空気が読めないわけではない。その気になることこそ少ないが、気遣いの一つや二つできなくはないのだ。それに、夢の中とは言えあんなものを見てしまった後だ。少し考える時間もほしかった。

「まぁ、ナターシャの教育の成果もあるんだろうな。……それじゃ、お言葉に甘えて本題に入ろうか」

「ああ。……現状、俺達が知りたいのは二点だけだ。一つ目が、お前が聖地で何を見たか。二つ目が、それによりお前が今後どう振る舞うか、だ。それさえ嘘偽り無く答えて貰えればいい」

「へいへい、仰せのままに、ってな」

 二つ返事で快諾すると、スヴェンは昨晩の出来事について語り出す。記憶力に自信があるとは言えないが昨日の今日だ、大筋は忘れてはいない。適宜挟まれる質問に答えていくうちに、一通りのことは話し終えていた。

 困ったのは、二つ目の質問の方だ。どう振る舞うかと問われたところで、何も決めていないと言う他に答えはない。だがそれで許してくれるほど、目の前の男たちは甘くないようだった。

「……質問の仕方をを変えよう。昨晩のカーラの行動をどう思った?」

「どう、って言われてもな……自分が信仰してるはずの神に喧嘩売るとかヤベえな、とは思った。エルを殺りたいって感じじゃなかったけどな。なんかアイツ妙に慣れてたし」

 昨晩のやりとりを思い返しながら、スヴェンはぽつぽつと言葉を紡ぐ。カーラの行動は、遊びの範囲では治まらない動きだった。殺す気があったにしろ、その程度では死なないと知っていたにしろ、普通と言えるものではない。

「そうか……それなら、昨晩のエルについてはどうだ」

「……なんつーか、気味が悪かったな。意味わかんねぇ術のこともあるけど、心底楽しそうに人間串刺しにしてんだぜ? 頭イカれちまってんじゃねーの、あいつ」

 苦々しげに吐き出された言葉に、シーギスは僅かに目を伏せた。その難しい表情を見てようやく、スヴェンは彼が聖職者、即ちエルを信仰する者たちの筆頭であることを思い出す。

「お前、マジであんな化物信仰させてんの? 知らなかったって訳じゃねぇんだろ?」

「…………ああ。その認識で間違いはない」

「おかしいとか思わねぇのかよ。災害起こして国沈めて人嬲って喜ぶような輩だぞ? どう考えても崇めるようなもんじゃねぇだろ」

「じゃあ、エルは化物だから信仰するなとでも喧伝して回ればお前は満足か?」

 よく響く声で割って入ったのは、同席するという立場からか静かに成り行きを眺めていたエセルだった。ベッドの端に脚を組んで腰掛ける彼は、頬杖をついたまま口元に弧を描く。どこか剣呑なその笑みに気押され、スヴェンは軽く手を払ってみせる。

「そう言う訳じゃねぇけどよ。でもこの国の人間はみんな、実態なんて知らずにアレが自分たちを守ってくれる神様だと思ってんだろ? なんつーかさ、騙してるようなもんじゃねぇか」

「そうだな、一意見としてそれは認めるよ。でも現在この国がエルの力の下で成り立っているのは変えようのない事実だし、信仰や戒律も民の生活に深く根付いてる。俺達は、国を統べる立場の者として最適な選択をしなければいけない。そんな感情論に流される訳にはいかないんだ」

 翡翠色の瞳が真っ直ぐにスヴェンを捉える。その声音は一貫して穏やかで、感情の色は読み取れない。

「お前が思ってるほど、宗教って言うのは簡単じゃないんだよ。生まれたときから言い聞かされてきた神の教えって言うのは、人の善悪や常識、価値観に強い影響を与えるものなんだ。お前がエルをどう思おうと自由だけど、『騙されている奴らが可哀想だから』なんて言う短絡的な理由で他者の信仰に口を出すべきじゃない」

「……そこまでは言ってねーだろ」

「でもそれに近いことは考えただろ? ……さて、すっかり話が逸れちゃったな。シーギス、他に何かあるか? 無いなら俺はそろそろ自分の仕事に戻るけど」

 漸くスヴェンから視線を外すと、エセルは軽く伸びをし立ち上がる。もう既に、先程までの重い空気の名残はない。軽く肩を叩かれたシーギスは小さく息をつき、ゆっくり首を左右に振った。

「じゃあお暇させて貰うとするかな。……スヴェン。何か文句言いたいなら、今なら特別に聞いてやるぜ?」

「……聖職者より長々と宗教語る商売人ってなんなんだよ。神なんてろくに信じてなさそうな顔してやがるくせに」

「咄嗟にそれだけ言えりゃ上等だ。でも残念ながら、こう言う話は当事者より第三者の方がそれらしいこと言えるもんなんだよ。責任が無い分好き放題言えるからな。……それに俺だってエルの信徒だよ、敬虔とは言い難いけどな」

 笑いながらそう言い残すと、エセルはひらひらと手を振って部屋を出て行った。ガチャリとドアが閉まる音の後、不意に静かになった部屋で、もの言いたげにこちらを見つめるシーギスと目が合った。

「……んだよ。謝んねーぞ別に。エルがトチ狂ってんのは確かなんだからな」

「何も言ってないだろう……最初の質問に戻るだけだ。お前はこれからどうするつもりだ?」

 静かな夜色の目に見据えられながら、ぼんやりと考えを巡らせる。エルについては気分が悪いが、何かしようと思う前に釘を刺されてしまった。カーラの思惑も気になるが、下手なことをして同じような目にあうのは御免である。そうなると、残りは一つしか思いつかない。

「助けてもらった恩もあることだし、当てが無い訳でもない。……ここはひとつ初心に帰って、夢の中の嬢ちゃんを探すってのはどうだ?」

   

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