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 突如頭上から現れた黒い影を、エセルは驚愕と安堵と呆れが綯い交ぜになったような心地で見つめていた。骨が折れたのか関節が外れたのか、黒猫により床に縫い付けられた哀れな鼠の腕は奇妙な角度で捻じ曲がっている。噎せ返るような薔薇の香りに掻き消され、鉄錆の香りがしないのだけは幸いだった。

「……ねぇ、これ何撒いたのお前。鼻が曲がりそうなんだけど」

「うちの商品。原液浴びるようなものではないけど、身につけるものだし害はないよ。……そっちこそ、司令官御自ら天井裏に潜むなんてどういう事態だ?」

「下手な駒使うより私が動いたほうが早いでしょ。一応聞くけど、こいつに見覚えは?」

 カーラは手際良く縛り上げた鼠を床に転がし、宵闇の中でも赤くぬらりと光る刃を鞘に納めた。口に詰められた布の隙間から低く呻き声が漏れ聞こえ、ひとまず男が死んではいないことが知れる。

「俺の方では覚えはないし、心当たりもないよ。でもここまで上手くことが運ぶってことは、軍の方ではもう何か掴んでるんだろ?」

「さてね。どう転ぶかは、こいつの根性次第かな」

 その端正な面に浮かぶ嗜虐の色を隠そうともせず、カーラは男の背を踏みつける。これから夜を徹した尋問を受けるであろう彼に僅かばかりの同情心が湧かないではないが、エセルはそれ以上の言及はしなかった。

「お望みの獲物が手に入ったんなら餌冥利にも尽きるってもんだよ。まぁ、事前に一言くれてたら、こっちも多少は手伝えたと思うけど」

「素人の助力なんて糞喰らえだよ。長くても三日で全部片付けるから大人しくしてて」

「はいはい……この時期に三日空けるのはキツいんだけどなぁ」

 数日分のスケジュールを脳内で確認し、エセルはため息を零す。最低限のことは家の者でもこなせるとは言え、収穫祭前のこの時期、当主本人でなければ勤まらない仕事も少なくない。些事を切り捨てれば辛うじて対処できる範囲ではあるが、やはり長く家を空けるのは負担が大きかった。

「そこまで読んでうちに冤罪かけようとしたんなら、あちらさんもなかなかの策士だけどね」

「どうだか。少なくともこっちの力量を見誤って罠に嵌る程度には無能でしょ」

「それは日頃の行いだろ? まさかバシュラールのお坊っちゃんがシルヴェストル如きを真面目に警護するとも思わないだろうし……そもそもこんな部屋、俺なんかは存在さえ知らなかったしな」

 四角く切り抜かれたように穴の空く天井を指し示し、エセルは軽く肩を竦めてみせる。元より兵を忍ばせることを前提とした作りのこの部屋が、真っ当な客室だとは考えにくい。不機嫌そうに眉根を寄せたカーラの表情からもそれは明らかで、本来ならば門外漢の自身が知るはずではない情報であることは容易く知れる。

「……この部屋が不満なら地下にでも移動する? 看守が丁重にもてなしてくれると思うけど」

「勘弁してくれよ。俺の腹探っても何も出ないのは知ってるだろ?」

「お前なら流石にもう少し上手くやるでしょ」

「……一応、褒められたと思っておくよ。あんまり嬉しくはないけど」

 これ見よがしに溜息を零しては見せたものの、カーラの言うこともあながち的外れではなかった。立場柄得られる情報が多くないことを差し引いても、この事件は腑に落ちない点が多い。

「今回の件、相手の目的が読めなくて不気味なんだよな。お前の毒殺目当てにしては手段がお粗末だし、わざわざ午餐会の場でやるメリットも薄い。うちに嫌疑をかけるにも軍の影響力を削ぐにもそこまで有効な手だとは思えないし、何よりこのやり方じゃリスクが高すぎる。嫌がらせとしてはなかなかのものだけど、それだけだ」

「……まぁね。でも、何も考えて無さそうな割には準備に時間の掛かる計画で攻めてきたし、王宮内や軍のことに通じてるのも確か。その上、駒そのものは三下とは言え、この部屋まで警備の穴を抜けて刺客を送れるだけの情報網もある」

 策の杜撰さに目が行きがちではあるが、厄介な敵であるという認識は共通している。特に軍の長であるカーラにとっては獅子身中の虫、早めに片をつけたい案件だろう。とは言え、大人しくしていろと釘を刺された以上、エセルにできることは然程ない。

「情報って面で言うなら、市井の方にどの程度の耳を持ってるかも気になるところだけど……ま、その辺りはヴェルデの領分か。俺はあと三日は動けないみたいだし、精々傍観者に徹させてもらいますかね」

「よく言うよ。あんな目立つ奴を動かしといて」

 吐き捨てるように紡がれたカーラの言葉に聞こえないふりをして、エセルは窓の外へと視線を逸らす。星明り一つ無い宵闇が、王都を静かに覆っていた。

 デュランベールには古くから新月の夜に外出を控える風習があるが、それにも例外と言うものは幾つか存在する。その中で最も有名なものの一つが、今スヴェンのいる王都の南西地区という区域だった。もう夜も更けたと言うのに通りには馬車が走り、灯りを持った若い娘達が客を呼ぶため店前に立つ。満月の夜にも、ともすれば昼の喧騒にも劣らぬ賑やかさを誇るこの地だが、やはり華やかなばかりの世界ではないと言う。

「貴族の世界も商人の世界も、上に立つ方々の多くは男性でしょう? どんな素晴らしい立場の方であっても、男の性を持つ以上一夜の夢を求めるのは当然のこと。それに、閨にまで伴を連れて来られる方もそう多くはないわ。……だからこそ、この館のような場は密談の場として好まれているの」

「はぁ……女遊びくらい普通にできねぇのかよ、貴族ってやつは」

「勿論、なんの裏もなく来て下さる方も沢山いらっしゃるわ。それだけの価値のある時間を提供しているつもりですもの。けれど……今のこのタイミングでシルヴェストル家の方がこの店に、となると、裏があると考える方のほうが多いでしょうね」

 そう言葉を紡ぐナターシャの滑らかな手が、繊細な作りのペアグラスに透き通った琥珀色の液体を注ぐ。ふわりと香り立つ華やかな芳香は、それがかなり上等な酒であることを告げていた。

「んな高そうなもん頼めるほど金持ってねぇぞ」

「お気になさらなくて大丈夫よ。どうせ誰も飲まないボトルだから。……貴方のことを追いかけて、既に三組以上のお客様がこの館を訪れているわ。こちらに悟られずに事を進めている方や、館に入るだけの伝手がない方の事も考えれば、動向を気にしている方は、きっとその何倍もいらっしゃるでしょうね」

「んなこと言われても、俺は無関係だっての……」

「貴方がどの派閥かなんて、傍目からはわからないもの。流石に手荒なことをするような不調法者は殆どいないでしょうけれど……それでも、元々シルヴェストル家を面白くなく思っている方は多いから、暫くは慎重になることをお勧めするわ」

 グラスの片割れをスヴェンに差し出し、もう片割れから決して軽くはないであろうそれを一息で煽ると、彼女は燃えるような赤毛をふわりと揺らして微笑んで見せる。艶やかな視線に促され杯を傾ければ、飲み慣れない上品な酒精の味が口いぱいに広がった。どことなく居心地の悪い気分になって、スヴェンは乱雑に頭を掻き毟る。

「慎重にっつっても、俺は元々危ない橋は渡っちゃいねぇよ。エセルの野郎が勝手に巻き込んだんだろうが」

「そうね……あの方にも色々と思惑はあるのでしょうけど、貴方にとっては災難だったわね。後で貴方好みの娘を寄越すから、今宵は俗世を忘れてゆっくりしていって頂けると嬉しいわ」

「……俺としちゃアンタが好みのど真ん中なんだけどな。こんな良い女、中々お目にかかれねぇよ」

 僅かに身を乗り出して手を伸ばすも、彼女は優美な所作でするりと接触を避け、琥珀色の瞳を細めて見せる。

「光栄なお誘いだけれど、今日はまだお仕事があるの。お遣いのついででなく会いに来て頂けるなら、その時はサービスするわ」

 ひらひらとドレスの裾を翻して出ていくナターシャはやはり魅力的で、いつかはこの腕に抱いてみたいと思わせるだけのものがあった。とは言え入れ替わりに現れたのもなかなかにスヴェン好みの美女であり、結局はナターシャの言うとおりゆっくり朝まで楽しむことになったのだった。

   

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